今、生きている自分と、過去と未来の自分

鏡を見るのが怖いときが ある。

自分の顔が嫌いとかそういうことではなく。

鏡の中の自分と目が合うとき、あれ?誰だ?と思う時がある。

自分の顔が、日によって、全く違って見えるのだ。

髪型、肌の調子、顔の浮腫み、照明や日の当たり方などいろいろ原因はあるのだろうが、原因の一つに「心理的解離」があると感じている。

 

一昨年、鬱のような症状があった。

ひどく落ち込んだり、急に涙が出てきたり、怒りのスイッチが入ると自分を止められなかったりした…。常に呼吸が浅く、寝ても疲れが取れなかった。そのときは、この世のすべてが無意味に感じていて、とりわけ、自分の存在意義を全く感じなくなってしまった。希死念慮があったかもしれない。(実際には、「死にたくない」が根底にあるので、ましだった。「生きるのが辛い」が正解かもしれない。)

 

とにかく辛いので、その苦しみから抜け出したかった。その改善方法として、「行動認知療法」があった。無料のオンライン相談をしていく中で、出会った方法だ。

「ひどく落ち込みます。気分が晴れません。どうすればよいですか」というような訴えに対して、「Q.今日、できたことは、なんですか?」という質問された。これに対して、「できた、ことが一つもない。『したこと』ならたくさんある。朝起きて、ごはんを作って、食べて、出勤して…すべて『したこと』だと感じる」という回答をしていた。すると、「ちゃんと、朝起きていて、えらいですね。朝起きて、自分でごはんを作って、食べて、仕事に行っている。すべて『あなたの力でできたこと』なんですよ」と言われた。そのときはピンとこなくて、単なる定型の慰めにしか聞こえなかったが、「忙しすぎて、一つ一つの行動が、無意識の中で行われていて、通り過ぎてしまっている。だから、行動に意識を向けて生活するとよいですよ。自分の行動を、日記などに書いて見つめるとよいですよ。」とアドバイスをもらったのだった。

そういえば、「自己肯定感を高める」や「自分に自信を持つ」などを検索すると、ほぼすべての記事に「できたことを3つ書く」などのアドバイスが出てくる。これが、「行動認知療法」だったとは、知らなかった。

それからfacebookに3つのできたことや、感謝したいことなどを書くようになった。最初はなかなか埋まらなかった。ちゃんとしたことを書かなければいけないという気持ちになっていたからだ。この「○○でなければならない」や「○○べき」という思考が、もはや鬱の入り口なのだが、この時は鬱と認識できていなかったので、どうしてこのような呪いから解かれないのか、不思議でならなかった。

1か月くらい続けた。もともと飽き性ということもあり、継続はできなかったが、1か月も経つと、もはや書かなくても自分の行動を振り返ることができるようになっていた。(書くことが目的ではなく、振り返ることが目的であったため、書く作業を省いてもよいと感じるようになっていた)

そこから、気持ちが落ち込む度合い、頻度はどんどんと改善され、とても晴れ晴れとした気持ちになれる日が多くなっていった。

それでも、何か嫌なことがあったり、衝撃を受けたりすると、ドロッとした灰色の塊みたいなもの(靄みたいなもの?)がぶわっと心の中に充満することがあった。きれいな水に、墨汁を垂らすと、わっと広がって、全体が濁るようなイメージだ。だけど、「自分には幸せなことがいくつかある」と考えることで、その濁りを解消することができるようになった。垂れた墨汁を取り除くことはできないけど、より綺麗な水をたっぷり注ぐことで、濁りを薄めることができるし、場合によっては溢れさせてその濃度を減らすことができる。幸せの見つけかたとして、目に見えるものがよいと感じたので、インスタを使って1日1ハッピーを見つけることにした。

これまた、飽き性(というか、多忙)の私には、継続力はなく、1か月でブームが去ってしまったが、やはりこれも「インスタにアップしなくても、幸せが見つけられるようになった」という現象が起こったと説明するのが自然だ。もう、(どうでも)よくなったのだ。

 

しかし、こんな記事もある。「一度鬱になると、鬱になる前の自分には戻れない」

初めて聞いたときは、がっかりした。元通りになるわけではないんだ、と。

でも、よくよく考えれば、それは自然なことだ。何事も、経験する前の自分には二度と戻れないのだ。不可逆なのだ。嬉しい出来事に直面した自分も、辛い気持ちを抱いた自分ももとには戻せないのだ。膝を擦りむいたとき、血は止まっても、傷は残るのだ。オチを知ってしまった自分からは、知る前の自分には戻れないのだ。(『進撃の巨人』で経験した)

 

だから、いま鏡に映っている自分と、明日見る自分は、違う人間なのだ。このブログを書く前と後とでは、別人の脳みそなのだ。だけど、そこに「同じ人間なのに!」「私は私なのに」「私ってなんだろう」というこだわりを持つことが、自分を苦しめるし、追い詰める。

 

常に自分という存在の不確定要素があり、人間そのものが諸行無常なのである。

疑問だらけ

職場で、行事記念のTシャツを買う話が出ている。

正直乗り気ではない。

理由1:もう、1枚持っているから

理由2:高いから

理由3:もう、辞めようと思っているから(言えない)

理由4:なんか、屈服するのが嫌だから

 

昨日の、上司の息子さんに渡すプレゼントの話も、どうだ。

その日に100均に行って、買って来いとな。

前もって言えよ。大学生じゃねえんだから。

あなたは会ったことある人かもしれませんが、こちとら、顔も名前もよく存じません。

でも、まあ、100円の範囲だし、それで話が盛り上がるのなら、100歩譲って、行ってもよいと思い、100均へ。そのくらいの乗りと余裕は、まあ、持ち合わせているつもりだった。

しかし、調子にのったのか、今度は行事Tシャツだ。

何枚ももって、どうするんだ。

プチミニマリストの私からすると、到底、受け入れられない無駄な買い物だ。

ただでさえ、普段着(仕事着)に、スーツ、運動着、水着、その他日焼け対策の数々、服がありすぎるというのに、4000円のダサいTシャツを、一回着て捨てろというのか。誰か、代わりに買ってくれるのか?!なぜ、買う方向で話が進んでいる。私は、反対したい。

 

これまでも、こういう類のものは購入してきた。

寮のTシャツ、パーカー、

サークルのTシャツ、ジャンパー、

部活のTシャツ2枚←

行事Tシャツ2枚(本当は1枚で十分だ)

そのどれもが、その一瞬のためだけに存在していて、不必要だった。

さらに、やっかいなことに、思い出、とか、ちょっと高かった…とかの諸々の理由から、かなり捨てにくい!!精神的に、参る。

 

盲目だったのかもしれない。いや、組織への愛でカバーしていたのか?

とにかく、働き始めてから、この乗りについて いけない!

学生までの、ささやかな楽しみ、でしょ?職場にそういう人間関係求めていない。

個々人は好きだ。善い人が多い。でも組織は嫌いだ、LINEも入りたくない。

いい年した、大人がなにやってんだ。いや、大人だから、黙って組織に従うものなのか?理解できない。

 

思えば、学校現場は、疑問だらけだ。なぜ、そろいの体操服じゃなくちゃいけないのか。なぜ、制服があるのか。なぜ、買いたくもない教材を買わされて、作りたくもない時計付写真立てとか言うわけの分からないものを作らなくてはいけないのか。どうせ、捨てるのに。

カタログ配って、作りたいもの作ればいいじゃないか。材料だけ与えて、もしくは、自分で調達して、作りたいものを作ればいいじゃないか。何が、主体性だ。論文だ。ちゃんちゃらおかしい。作りたいもの作らせておけばいい。「のこぎりを使う」とか「木材を使う」などの、条件だけ与えておいて、あとはクリエイティブにさせればよい。本当の芸術はそういうものだ。

歌だって、そうだ。好きな歌を歌えばいい。世の中にはたくさんの良い歌があるんだから。それを、練習して、演奏して、発表とかすればいい。好きな楽器を持ってくればいい。なぜ、みんな鍵盤ハーモニカを買うのか。なぜ、そういうカリキュラムしか組まないのか。なぜ、みんな同じお道具箱なのか。指導がしやすい?だったら、1年生ように、学校で貸し出せばよい。毎年同じものを。高学年になってから、自分の気にいった、自分が使いやすい文具をそろえればよい。

もう、ダメだ。反吐がでる。

引っ越しをした

もしかしたら、他者から見ると無意味かもしれない引っ越しをした。

市内。元・住まいから車で6分。実家まで車で3分。

でも引っ越したかったから引っ越した。

失ったものは、お金だけ。

得たものは、素晴らしい朝日と夕焼けの空、町の喧騒、クリーンで快適な暮らし。

我ながら、良い引っ越しだと思う。

 

もともとこういう、理想(?)の暮らしをする予定で、ちょっと2年半寄り道しただけだと思うようにしている(笑)

 

引っ越しをしようと思った、別の理由は、物を減らしたかった。というもの。

自粛期間に「Tommy」さんというYoutuberの動画を見て、物が少ない暮らしにあこがれた。もちろん、巷で言う、「ミニマリスト」と比べると、服は「Tシャツ何枚重ね着できるか?!選手権」ができるくらいたくさんあるし「座布団何枚?」というくらいタオルが山積みになっている現状もある。(頑張って、雑巾として全うさせてから逝かせたいんだ…!)

でも、多くの書類をデータ化したり、期限を見て食品や書類8などを処分できたし、仕事用の書籍もたくさん売ることができた。

また、「まだ使える」という「もったいない精神」の支持だけで持ちこたえていた多くの物を手放した。「使える」のではなく、「使うのか」で判断した。

断捨離して思ったことは、結局私には、大量の物を使いこなす能力がないのだ。

①飽きっぽくて3日坊主

②面倒くさいことは後回し(だからレシートが貯まる…)

③どこに何がしまってあるか、掃除をすればするほど分からなくなる。

だから、できるだけたくさんの物を持たない方がいいのだ。

 

また、Tommyさんの影響で、服のテイストも定まってきた。

それはいわゆる「ノームコア」ってやつだ。

高校生までの制服時代を経て、大学生になったときに私が一番頭を悩ませたのが、「ファッション」だ。周りはみんなおしゃれな人ばかり(に見えた)だったのだ。ある種のノイローゼのようになっており、時間を見つけては街を徘徊し、安くて見目のいい服を買って、しばらくすると「なんか違う」を繰り返してきた。あの時の、ちりも積もればの小金たちを、今集めて募金でもしたい。なんと、まあ、もったいないこと!

とにかく、その経験から、私は「ファッションセンスがない」ということにようやく気付いたのだ。雑誌をまねしてもだめ。はやりだけを追いかけるのもだめ。もうこうなったら…

と、思い切ってTシャツ生活をすることにしたのだ。白、黒ベースのTシャツに、ジーパンやスカート数枚。似合わない服や、流行のテイストが強すぎる服は処分したのだ。(現在Tシャツの枚数が多いのは、「この夏が終わったら、さよならしよう」という未練のため)

すると、どうだろう。

朝、服を選ぶのが楽になっただけではなく、何を着ても「よし!OK!」という気持ちになって家を出られるようになったのだ。未だかつて、こんな気持ちになったのは、友達の結婚式のために、1時間かけて化粧し、前夜に3時間かけて練習したセルフヘアセットが成功したときぐらいだ。

また、町に買い物に行っても、「新しい服がほしい」と思わなくなった。大学生とは違って歳のせいもあるだろうが、私はこれを「買い物の呪縛からの解放」と思っている。これまで私は、何か、常に新しい自分でいなくてはならないという恐怖感がずっとぬぐえなかったのだ。まあ、『引っ越し』してる時点で、何か総合的に「新しい自分」になりたいという欲求を満たしてしまったのかもしれないが(引っ越しには、自分の納得できる理由があるので、カウントしないことにしておきたい。)

とにかく、人生の悩み事がひとつ減ったのだ。これは、自分史上すごい革命だと思う。(Tシャツ革命と呼びたい)

Tommyさんの生活にはほど遠いけど、自分の好きな家具や本、道具に囲まれて、でも囲まれすぎず、小さく暮らしていけたらと思う。

そんな新居からの初ブログ。これにて、失敬。

 

▶Tommy

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他人と比べてしまう

先日、友人の新居に遊びに行った。

シックでいて華美でない、洗練されたデザインのリビング。

使い勝手の良さそうなキッチンと洗面所。

羨ましい限りであった。

すでに第一子も誕生し、幸せのお手本のような感じだ。

とても仲の良い友人であるため、付き合いたての頃も、結婚のときも、子供が生まれたときも、私自身、とても喜んだのを覚えている。

私よりも幾つか若いにも関わらず、旧友のように親しくしてくれるその友人を、私はとても尊敬しているし、大切にしたいと思っている。

 

しかし、私の心の中に芽生える、この「嫉妬」という悪魔は、消そうにも消しきれない感情となって、私の体内を、もう何周もしている。空の洗濯機をずっと回すかのように。

 

羨ましいのだ。

それは、認める。

友人は、私が欲しいと思うものをことごとく手に入れている(ように見える)。

容姿。パートナーとの出会い方、結婚~の流れの良さ、相手のスペック(言い方が悪いのは許してほしい。それ以外に言い方が分からないのだ。)

 

ずっと、「自分は自分」と思ってきた。

だけど、同時に、相手と比べ、自分を惨めだとか不憫だとか思う気持ちも芽生えなくはない。最近は、ずっと、この「他人と比べてしまう」自分と闘っている。

 

 

なぜ、人は「他人と比べてしまう」のか。なぜ「他人と比べるのはよくない」のか。

 

まず、「他人と比べてしまう」現象について。

単えに、「競争社会」だからである。現代=競争社会、と言いたいのではない。人類が誕生してから、或いは、生物というものは、多かれ少なかれ競争して生きるものだと言いたいのだ。競争の基準が、時代や生物の種によって異なるだけなのだ。

現代の人間社会において重要視される点は、「他者からの羨望」ではないだろうか。現代社会は、人間のもつ自己顕示欲をさまざまな形で提示することができる。例えば、このブログ、多様なSNS。動画配信サイトである。以前は、テレビ・ラジオ・新聞など、企業や機関を通さなければ情報を発信することができなかったが、今は一般人が自身を発信するためのツールにあふれている。人は、「他者からの羨望」を求めている。羨望の先はいろいろで、経済力であったり、奇抜な実験であったり、努力(の過程やその成果)であったり、自分では思い付きもしない作品や製造物である。

また、「他人と比べてしまう」ときは、視野が狭いときである。世の中には70億人も人がいて、70億とおりの人生を歩んでいるにも関わらず、身近な、近い年齢の、数名と自分を比べることの、なんと無意味なことか。その狭いコミュニティの価値観や風習だけに囚われて、広い世界とともに、自分を見失っているのである。自己肯定感が低い人や低いときに起こりやすい。

 

では、「他人と比べるのはよくない」か否かについてである。

結論から言うと、「精神衛生上よくない」と思う。これは、私自身、何度も経験したから言えることである。「他人と比べて、よかった」と後々思うことは、一度もない。比べるときは落ち込むときである。あるいは、落ち込んでいるときは比べているのである。また、比べることで自分が優位に立つ瞬間もあり、それはそれでキモチガイイものなのだろうが、その立場が揺らいだ瞬間、ただならぬ絶望感と喪失感を味わうため、やはり、イイトキも比べるのはよくない。

先ほども述べたが、「他人と比べてしまう」ときは「視野が狭い」ときである。精神的に狭い空間だけで生きていると、うまくいったときは井の中の蛙となり、うまくいかないときは、青菜に塩みたいになる。

 

他人と比べないためには、どうすればいいのか。

よく説かれるのが「自信をもつ」という解決方法であるが、そもそも実自信(=じつじしん。本物の自信のこと。筆者の造語)のある人は、他人と比べたりはしない。

実自信を持つためには、どうすればいいのか。

今日からできることは、自分を見つめることである。自分の「今」を見つめることである。私の場合、「ああ、今ブログ書いてるな」「たくさん書いてるな」を頭の中で唱えることである。「このあとどうするか」や「先に、あれをすればよかった」などを考えないのである。まさしく「今を生きる」ことに、全力を注ぐのである。未来のことを考えなければならないのなら、未来のことを計画として「今」考えるのである。紙や手帳に計画を「今」立てるのである。過去の亡霊に囚われたり、未来の妄想に振り回されたりしない。「今」この瞬間の自分を、ただぼうっと見つめるのである。

 

だから、私はYouTuberセイキンさんの「今」という歌が好きだ。また、そのメイキング動画が好きだ。まさしく「今」「曲作りに集中しているぞ」という、余計な情報がないところがまたいい。せっかくなので、ブログにリンクを乗せておくから、ぜひ観てほしい。 

▶SeikinTV「今/ヒカキン & セイキン 作曲シーン【メイキング】」https://www.youtube.com/watch?v=9j780Rg0ceM

 もちろん、曲そのものも。

 ▶SeikinTV「今 / ヒカキン & セイキン」

https://www.youtube.com/watch?v=1fiDau5i0Zg